こんにちは、関数です。
前回はカフェランチという、
オリンピック委員会の会長みたいな言葉が出ましたね。
確かそんな人物がいたような気がします。
カフェにおいてランチをしたためる、
その利点は何かと言えば、
まず以て、
それが流行であるかのように感じられるということです。
今風の流儀を楽しんでいる。
ような心地がする。
裏を返せば、
それ以外に特にめぼしい利点はないかも知れません。
落ち着いた気分になれる、
というのは、
カフェだからではありません。
ただ単に、
そうした雰囲気の店だから、です。
大混雑のカフェで食事するのと、
午後二時半頃の客がまばらな大戸屋で食事するのと、
どちらが落ち着くか。
ランチにおいて、
どんな選択肢があるかと考えれば、
抽象的に言って次の三点です。
自作する。
購入する。
無視する。
第一点には、
弁当を持参する。
職場に自宅が近いから食べに帰る。
てゆうか職場自体がレストランで賄いは自分で作るし。
といった場合が該当します。
第二点には、
大戸屋に行く。
コンビニで適当に見繕う。
前々から気になってたラーメン屋に行く、今日こそ行く、たとえ行列に並んでも。
そのような場合が該当します。
第三点には、
お金がないから我慢する。
ああいつの間にかもう夕方か、すっかり忘れてた。
だいたい真ッ昼間から飯なんぞ喰う習慣は俺にはねえ。
こういう場合が該当します。
こう抽象してみれば、
それぞれの長所が、
幾らかはっきり見えて来ますね。
自作は、
暮らしの技術を培う、
という点でお勧めです。
購入は、
とにかく一切の面倒がない、
という点でお勧めです。
無視は、
経済的にまた精神的に多大なメリットがある、
という点でお勧めです。
さて皆さま本日はいかがなさいますか。
こうして、
先ほどから喰い物についてばかり考えていて、
碌なものじゃありませんね。
貴重な脳の資源をそんなことに使うとは、
もったいない。
人間らしくない。
食べることが好き、
それなら獣も鳥も食べることが好きでしょう。
食べることが好きでない生物、
そんな生物がいるとしたら、いたとしても、
とっくに絶滅している。
だから人類もまだこうして生き延びているのです。
心ゆくまで、喰い物についてばかり考えよう。考えるべし。
腹が減るから大いに食べて満足して、
それから、
さて人類は果たして生き延びるに値するような生物か、
ということを考える。
そういうのが、
真に人間らしい営みだと言えるかも知れません。
それでは突然ですが毎度おなじみ意味なし五七五、
「だし」の非正規表現。
次回は「ぢごく」です。地獄。
地はチと読むから濁ればヂ。ぢごくで正しいのです。
こんにちは、関数です。
前回は、
陽が当たる所、という、
これはいかにも、
ほっこり癒し系でやさしくあたたかい表現を用いましたが。
陽が当たる所とは何も、
そこからすぐ連想される情景ばかりとも限りません。
たとえば、そうですね、
はげ頭。
それは大いに陽が当たる所です。
大いに陽が当たって、
はげ頭は輝きます。
別に何も、
はげ頭がやさしくない、あたたかくないと主張するのではない。
むしろその逆です。
縁側に寝そべるねこの毛並にも、
エコな暮らしのため育て中のグリーンカーテンの葉にも、
のんびりまったりお洒落カフェランチの窓辺にも、
はげ頭にも、
陽は当たると主張しているのです。
つまり、はげ頭もまた、
ほっこり癒し系の仲間です。
言葉を、
何となくじゃなく、
きちんと受け止める。
それを心掛けると、
たとえばこんなことになるのでした。
明らかに良い印象。
誰にも異論がない。
その種の言語表現は、
意味を持たなくなってしまいます。残念。
それは、
普通の大人なら皆さんご承知の通りですね。
人と人との絆。
毎日に感謝する心。
自分らしく生きればいい。
もっとしっかりとした議論を。
世界でたった一人の君に逢えた奇跡。
国民ひとりひとりが真剣に受け止めなければならない。
こんな種類の言葉です。
いかがでしょう、
こう書いてみてもやっぱり、
無意味ですね。
どう贔屓目に見ても、
ただの幼稚な子供騙しにか見えません。残念。
言葉には、
こんな妙な性質があるから困ります。
だがここで、
仕方がないさ、
とあっさり諦めてしまわずに、
では、どんな言葉を使えばいいかしらん。
そう考え始める心の動きが、
いわゆる大人の階段というやつでしょう。
大人の階段のぼる、
ということは、
年を重ねてゆくということで、
つまりその先には、
はげ頭が待っています。
はげは、年齢と経験の証。
はげで思い出すのは、
内田百閒です。
決して、
百鬼園先生がはげなのではなくて。
とある会話の断片が、
たいへん印象的なのです。
以下は、
記憶に頼った要約ですから、
正確さに欠けるのはお許しを。
先生がドイツ人とお喋りしています。
ドイツ人の妙齢の美人が曰く、
ねえウチダさん、ニッポンは美しい景色が多いです、ニッコー、アタミなど。
先生これに応じて曰く、
私は日光も熱海も見たことがないのです。
ドイツ美女驚いて曰く、
考えられません、ウチダさんあなたは美しい景色がお嫌いですか。
困った先生曰く、
いいえ好きですが、その機会に恵まれないのです。
ドイツ美女応えて曰く、
「機会は、はげ坊主である。一房しかないその髪の毛を、お掴みなさい」
こんな調子で、
何でもない場面をむちゃくちゃ面白く書けてしまう。
これぞ内田百閒でして、
なるほど根強いファンが大勢いるわけです。
それでは突然ですが毎度おなじみ意味なし五七五、
「造形」の非正規表現。
次回は「だし」です。
こんにちは、関数です。
前回は、
北半球と言いました。
我々の意識の中で、
なぜかどういうものか、
地球は南北に分かれています。
地球と言うからには球なのであって、
同じように東西に分かれてもよいはずですが、
東半球ないし西半球とは言わない。
東洋、西洋と言う。
なぜだと問い詰められても困りますが、
北極南極はあっても、
東極西極はないから、
と言えば説明になりましょうか。
東西に地球を一周してみる、
というほうが、
南北よりもずっと先に行われるだろうからです。
北極や南極を通って地球一周なんて、
飛行機でもなければまずやらない。
宇宙の摂理からして、
天体には、
ぐるりと一周するたび陽が当たる所と、
いくらぐるぐるしても陽の当たり具合が変わらない所があります。
だから、
極が生じます。
それなら、
あたかも地球と月の関係のように、
恒星との向かい方が常に変わらないような惑星があるとしたら、
その星は。
永遠の灼熱の《光》世界。
永遠の氷結の《闇》世界。
半球を真っ二つに割って、
そうした分かれ方をすることになりますね。
その星に生物がいれば、
どんな生活をするか。
こう、
光側と闇側のちょうど境目辺りに、
ちょぼちょぼと生活圏を維持するような格好になるかしらん。
暑すぎず、
寒すぎず、
という地域で暮らしが成立するでしょう。
その暮らしと言えば、
眠くなったら、
さあ寝るかと呟いて、
ちょっとだけ闇側にてくてく歩いて行って、
眠るのです。
そしてよく眠ったら、
ああよく寝た、さあ働くかと言って、
ちょっとだけ光側にてくてく歩いて行って、
活動するのです。
つまり、
一日のけじめというものが、ない。
そんなものが生まれようがない。
陽の当たり具合が変わらないからです。
日々の暮らし、
という概念さえない。だって日なんてない。
そうなると、
地球人には全く思いもよらないような精神が、
生じて不思議はありません。
そうですね、たとえば、
ちと無理かも知れませんが、
「自分の寿命を自分で知っている」とか。
日々というものがなければ、
人生まるごとで以て時間を把握するだろうからです。
こりゃとんでもないことです。
純朴な地球人が抱いている死生観、
そこからあたかも一般法則のように導かれる倫理や哲学というものが、
あっさり根底から覆ります。
SF という物語が面白いのは、
たとえばこのように、
常識を引っくり返されるからですね。
それでは突然ですが毎度おなじみ意味なし五七五、
「ゼロ」の非正規表現。
おや、意味なしどころか明瞭な意味が生じてしまった。
次回は「造形」です。
こんにちは、関数です。
南の島、
という言い方を前回はしました。
この言葉に地上の楽園的な印象を持つのは、
もちろんのこと、
北半球の温帯から寒帯にいる人々だけですね。
オーストラリアにいれば、
南の島もへちまもない。
ひょっとして、
北の島と聞いたとき同じ印象を持つのかしらん。
するとすぐに気になることがあって、
南の島自体に住む人は、
どうか。
自分は地上の楽園に住んでいると感じるものか。
それは、
なきにしもあらず、
という所があると思う。
あろうことか、
「熱帯地方で高度な文明は育たない」などと、
まことしやかに暴言を放つ人もあります。
そしてそれは、
少なくとも地球のここ最近の二千年ほどの現状から見ると、
一概に否定しにくいようです。
楽園なら、
文明なんて厄介なものは要りません。
豊かな自然の中に埋没してたいへん幸せです。
それともただ単に、
蒸し暑い。
そのことが案外重大に影響するものかも知れません。
だって、
蒸し暑いと、
大概の物事はどうでも良くなるもの。
そもそもが、
考えてみれば、
大概の物事はどうでも良いのです。
それは「考えてみてない」んじゃないのか、
という指摘も飛んで来そうですが、
指摘されたところで、
どうでも良いことに変わりありません。
蒸し暑いからです。
陽炎立つ夏真っ盛りの草いきれの中をじくじくと歩きながら政治談議に夢中な人があろうか、いやない。
その政治の場に立とうと白手袋をはめる人は別ですが。
蒸し暑ければ、
思索の価値は薄れる。ような気がする。
思索なんかしたら余計に脳の温度が上がって、
むしろ身体に悪いかも知れない。
蒸し暑い日々の中で求められるのは、
高度な文明などではありません。
ガリガリ君です。
さっきから蒸し暑い、蒸し暑いと繰り返していますが、
近頃皆さん寒いと仰るから、
これで少しは暖まるかしらんと思いまして。
こう、
暑い寒いの話が出ると、
その場にはなぜか必ず暑い地方ないし寒い地方出身の人がいて、
いやいやこんなの序の口よ、
と言い出す流れになりがちなのが、
面白い現象ですね。
そういう倒錯のお国自慢も、ある。
ロシアの人などがお知り合いにいらしたら、
寒さ自慢をしてもらうといいのではないでしょうか。
きっと面白い。
面白いに決まっている。
マイナス何十度という気温を日常的に味わっている人たちですからね。
吾人もどこかで、
聞きかじったことがありますが。
マイナス 50 ℃超えという日が何日何日も続くと、
その後マイナス 30 ℃だというとき、
「あっついなあ今日は」と感じるのだそうですよ。
それでは突然ですが毎度おなじみ意味なし五七五、
「寸胴」の非正規表現。
次回は「ゼロ」です。